鷹狩と放鷹術
  •  2010年、鷹狩がユネスコの無形文化遺産に登録されたのは、人類の遺産として世界中に長い歴史が残されていることを示しています。
  •  鷹狩(放鷹・鷹野)とは、訓練した鷹や隼などの猛禽を使って獲物を捕えさせる、人と動物が協力して行う最も古い伝統猟法のひとつです。中央~西アジアでおよそ4000年以上前に発祥したと考えられています。
  •  鷹狩は130ヶ国以上に存在したと言われ、狩りに必要となる基本的な概念は似ていますが、放鷹術は国や環境、使う猛禽の種類などによって様々な違いがあります。日本の放鷹術は、モンゴル~朝鮮半島、あるいはペルシャ~インド~中国などを経て様々な影響を受けながら、独自性を発達させてきました。流派伝承はそのひとつとして、文化を形成しました。
  •  日本における鷹狩りの起源については諸説ありますが、日本書紀によれば西暦355年に仁徳天皇が百舌鳥野で鷹を使った狩をしたと記され、鷹甘部(たかかいべ)など、後に設置される鷹狩専門の部署誕生に繋がったとされています。鷹狩は天皇や貴族、将軍家といった時の権力者の庇護を得て、途絶えることなく1650年以上の歴史を紡いできました。
  •  鷹匠とは鷹主である身分の高い人々が鷹狩をするために鷹を調教する役職名であり、行幸日に合わせて鷹の体調を良い状態に調整しておく必要がありました。
  •  放鷹術(ほうようじゅつ,鷹術)とは、鷹匠が必要とされる技とこころを表し、諏訪流では鷹と呼吸を合わせた「人鷹一体」の狩りを成功するため、毎日鷹の体調を読みながら心を通わせる努力をし、鷹と鷹匠自身の体得すべき技の研鑽を目指します。
諏訪流放鷹術とは
  •  諏訪流放鷹術の特徴として、網懸(あがけ:巣立ちした若鷹)の調教を得意としたことが良く知られています。長い歴史を持ち、鷹を神の化身として敬ってきた諏訪流にとっては、野生の鷹のもつ美しい居住まい、高い狩りの追跡能力、身体能力等は、品格のある理想的な姿に感じられました。
  •  渡来系の流派である呉竹流(こちく流)や政頼流(せいらい流)から伝えられたとされる宮廷の流派であった禰津流(ねづ流)が、諏訪地域(現在の長野県南信地方周辺)に入り、諏訪信仰を基にする諏訪氏大祝一族が興した諏訪流と融合し、独特の技術や観念が形成されたと考えられます。
  •  鷹匠が仕える場所は、為政者の立場や時代の変化によって変わっていきました。鷹狩を行う権利は天皇または為政者が持っており、たとえば源頼朝は自身以外の者が鷹狩を行うことを禁じました。ただし、諏訪神社(現在の長野県諏訪大社)の贄鷹(にえたか)の儀式は例外として許可したため、武士たちはこぞって諏訪神社の分祀を地元に持ち帰ったと言われます。
  •  地方に広がった諏訪神社は、時には仏教を受け入れ、権力に抗わずに人々が生きやすい道を示すように、日本人の生き方を助けてきたように思います。戦国時代、武士化した諏訪氏が倒され、神事の史料が失われても、諏訪神社は生き残りました。諏訪地方から全国に広がった武士に仕えた鷹匠たちは、有力大名の下で奉職する術として、諏訪流を名乗ることが役に立ちました。
  •  しかしながら行政に奉職する鷹匠が流派伝承を名乗る機会は少なく、誰がどの流派であったのかを記録した書物は多く残されていません。一方で指南書として多くの鷹書が残されているのは、それが体系的に記録する有益な方法であったことを示しています。流派伝承は役職にとらわれず、弟子を育てる素地として、大切な役割を果たしていたと思われます。
  •  行政の庇護を失った現代でも、鷹狩文化は生き残っています。それは放鷹術が残されてきたためであり、鷹匠が生き残ってきたからです。諏訪流は諏訪藩、徳川直参、宮内省(庁)、そして民間人など道を変えながら、現在に伝承された最も古い流派として生き残ってきました。権力に影響されず、流派伝承は次世代に保存されることでしょう。
  •  諏訪流鷹匠は殺生に対する考え方として、「諏訪の勘文」を常に心に留めています。
     仏教が伝来した頃、戒律の一つとして殺生を容認しない教えが広まり、鷹のために餌動物を毎日殺生しなくてはならない鷹匠たちが責められたことがありました。しかし鷹にとって、他の生物の命を頂くことは生態系の役割であり、人間も同様に命を頂いて生きています。
  •  諏訪神社では漁師や猟師など生活の為に殺生しなくてはならない悩める人々のために「諏訪の勘文」を広め、それは鷹匠にとっても救いとなりました。餌動物が食べる昆虫や植物から肉や魚に至るまで、全ての命は鷹と人間に繋がっていることを、鷹匠は日々身近に感じています。
  •  現代の私達にとっても、肉食に対する嗜好と罪悪感という相反する思いは共感できるように思われます。たとえ自ら殺さないとしても、生物としての人間は、他の動植物の命を奪うという定めから逃れることはできないからです。このような感情が「諏訪の勘文」のような、生に感謝し、奪った命ともども成仏しようという考えを生んだのではないかと思います。
  • 諏訪の勘文 解釈(諏訪流放鷹術保存会)
     鳥獣や魚の業が尽きて人に捕らえられたのなら
     その死は他の命を支える使命(食物連鎖)である
     人と同化した魂は人が成仏する時に
     共に成仏する

諏訪流のルーツ
  •  信州諏訪大社には、御射山祭において、鷹で捕えた獲物を神に供える贄鷹の神事があり、特に上社は鷹との繋がりが強かったと考えられています。鷹は仏の化身と称され、上社では普賢・観音菩薩が弟鷹(だい:メス)として、下社では不動・毘沙門天が兄鷹(しょう:オス)として姿を現したと伝えられています。
  •  諏訪の大祝(おおほおり)一族にはこの祭礼のために鷹を調教する技が伝えられていたとされ、中世に流派の概念が鷹狩文化に広まりました。同地を治める諏訪氏に仕える鷹匠の技は諏訪流と称されるようになりました。諏訪には禰津流や大宮流などの一族に近しい流派も存在し、その門下から荒井流や吉田流などの新しい流派も生まれました。彼らは宮廷に仕えた鷹の家や、彼らに通じる源政頼や女性初の鷹匠といわれる呉竹とは異なり、武士化したことで豪族の庇護を得、全国に広がったと考えられます。
  •  戦国時代、織田信長に仕えたとされる小林家次は、優れた功績により鷹の字を頂き、家鷹と名乗るようになったと言われています。家鷹は信長亡き後に徳川家康に召し抱えられ、子孫は幕末まで徳川幕府に仕えました。家康公の保護を受けて、鷹狩は文化的に豊かな時代を迎えました。
  •  大物が好まれるようになると、吉田流などの巣鷹(すだか:巣立ちする前の雛)の調教を得意とした流派が好まれるようになりました。将軍家から皇室へ鶴の献上が行われ、御三家といった有力な大名へは鶴だけでなく鶴を捕えた鷹自身の下賜も行われました。鷹狩は幕府の年中行事として、武家の儀礼に非常に重要な役割を果たしました。
  •  鷹を飼育する場所を鷹部屋といい、鷹匠はそこで調教を行いました。徳川吉宗の時代になると、諏訪流は千駄木、吉田流は雑司ヶ谷の鷹部屋に分かれ、鷹を調教しました。言うまでもなく、鷹匠は自身の好みや鷹の素性にかかわらず、毎年届けられる若い鷹を調教しなくてはなりません。鷹部屋を分けることは失火や鷹の病気によってすべての鷹を失うことを防ぐ効果もあったようですが、各流派の調教方法を生かして、理想を追求することができたと思われます。
諏訪流継承の流れ
  •  小林家は十三代鷹師 鳩三までは徳川将軍家に、十四代鷹師 小林宇太郎からは宮内省(現宮内庁)に仕えました。小林宇太郎には実子がいなかった為、その技と心は同庁に仕えていた弟子である十五代鷹師 福田亮助氏、十六代鷹師 花見薫氏に受け継がれました。
  •  十五代鷹師 福田亮助氏は花見氏の先輩で宮内省鷹師になり、日露戦争時代には小林宇太郎氏に同行しハヤブサによる軍用伝書鳩の追い払い実験を行いました。福田氏の弟勘蔵氏は千鳥笛の達人であったと言われています。
  •  しかし戦後、宮内庁が公式の鴨猟に鷹狩を使用しなくなったため、十六代鷹師 花見氏は弟子を育てることができなくなってしまいました。
  •  そのような折、埼玉鴨場で場長をされていた昭和445年(1970年)に、同鴨場を訪問したのが当代鷹師の田籠先生でした。花見先生は宮内庁に配慮され、定年退職した後に伝統的な放鷹術の火種を残しておこうと田籠氏に指導を行い、田籠氏は昭和58年(1983年)、当時の仲間であった篠崎隆男氏、室伏三喜男氏と日本放鷹協会を設立、花見先生を昭和60年(1985年)に同協会会長として招聘しました。
     花見先生には85歳まで現場で放鷹術の指導を頂き、やがて1996年、田籠氏を十七代鷹師 として允許してからは田籠鷹師がその任を担いました。
     同協会設立時は、流派を限定せず、広く放鷹文化に興味を持つ会員を募集してきました。田籠鷹師は年々活発になる国際交流を通じて、諏訪流放鷹術を研鑽、維持する事は日本の伝統文化の稀少性・固有性を高めることであると考えられました。そして日本の鷹狩がユネスコの無形文化遺産へ登録(2010年にUAEを含めた11ヶ国の共同申請により登録されている。追加登録申請が可能)されるよう強く願ってきました。
  •  平成18年(2006年)、60歳を迎えられるのを機に、諏訪流の技と心を次世代の人々に伝え、後継者の育成に繋げたいと、当時の弟子らとともに諏訪流放鷹術保存会を設立しました。田籠先生は伝統文化を学びたいと集まってきた門下生たちの指導に尽力されました。
  •  平成27年(2015年)、田籠先生の弟子の中から大塚紀子 師範鷹匠が、第十八代鷹師(宗家)を允許され、現在は同氏が門下生の指導を行っています。
現代における鷹匠
  •  諏訪流鷹匠は、網懸と接する時にはその神経質な性質を尊重し、鷹がその能力を狩場で生かせるように神経を配り、巣鷹と接する時には網懸のような冴えた鷹へと調教することをめざして調教を行います。神経質な鷹に接することは鷹匠としての修業であり、「忍耐や寛容、感謝」につながっています。
  •  「 鷹は鏡 」という言葉にあるように、鷹は使う鷹匠の心を映すと言われます。鷹匠は鷹と共に里山を歩き、たとえたった一羽の獲物に遭遇しないとしても、鷹と過ごした一日を楽しみます。鷹狩は銃猟に比べれば非常に猟果が低く、原始的な猟法です。最も効率の低く、維持可能な猟法として、環境への影響力の低いと世界的にも理解されています。
  •  放鷹術の実演、傷病鳥の治癒後のリハビリテーション、野鳥を追い払う仕事、繁殖及び育雛、各種教育プログラムなど、放鷹術を様々な場面で生かすことができるのは、根底に鷹の心を読み、鷹本来の生き方を生かそうとする気持ちがあるためで、基本的な技術は同じです。
  •  鷹狩が長い歴史を持ち、文化的に発展できたのは、高い専門性、応用力、そして同じ生態系の頂点に位置する生物として、鷹と共に生存したいと願う根源的な心の現れなのかもしれません。
     鷹にとって快適な空間は、人間にとっても快適なものです。河川の岸辺から100mは人家を建てず、水と動植物を守るなど、お互いが一歩譲り合い干渉しあわない距離感とモラルが開発にも求められています。
     田籠鷹師がかつておっしゃった言葉があります。「地球がある限り、人間がいる限り、鷹もそこにいなくてはならない 」。
     鷹匠の生き方は様々ですが、未来へ存続したいという思いは共通だと思います。
諏訪流放鷹術の保存
  •  鷹の飼育・訓練方法を知りたいと思った時、現在ではウェブサイトや動画サイトの知識を拾うことが容易になっています。
     鷹匠のイメージに関しても、鷹の調教師から、バードショーのトレーナー、猛禽愛好家、ブリーダーなど、広い意味が含まれている場合があります。今や鷹匠というひとつの表現では、その姿を理解・想像しにくいかもしれません。
  •  一方、誰でも鷹を飼育できる時代にありながら、その調教方法を直接聞いて学びたい、日本の伝統的な放鷹術を鷹匠から学びたいと願う人々にとって、わずかに存在する門戸を探すのは今でも容易でありませんでした。
  •  そこで、十六代 花見鷹師より継承した伝統的な諏訪流放鷹術を正しく理解してもらい、また師弟制度による積極的な指導と修練によって優れた諏訪流門下生を育成するために、十七代宗家 田籠鷹師は2006年12月吉日、新たに諏訪流放鷹術保存会を発足しました。
  •  諏訪流放鷹術保存会は、諏訪流放鷹術を伝承し日本の鷹狩文化を支え後世に伝えていく為に活動を続けています。現在、同保存会は諏訪流第十八代宗家である大塚鷹師から諏訪流放鷹術を体得出来る唯一の場になっています。
諏訪流鷹匠の衣装
  •  鷹匠が鷹狩に出かける際に身につける装束は鷹装束あるいは鷹飼装束とも言われ、各時代の支配体制や文化の影響によって変化してきました。なかでも平安時代の天皇や皇族に仕える鷹飼が着用している狩衣と、徳川将軍家や大名家に仕える鷹匠の装束は大きく異なり、簡素で動きやすいものに変わったことが窺えます。
  •  現在、諏訪流放鷹術保存会が着用している装束は、明治~大正時代に宮内省(現宮内庁)で採用されたものを基に作成しております。江戸時代の鷹匠装束との違いは、藁の編み上げ靴や草履が地下足袋に、頭巾が鳥打帽に変わった点だけです。が、鳥打帽を取り入れた点に江戸時代と区別するための政策や明治維新後の西洋化の一端が感じられます。
  •  諏訪流放鷹術保存会では先代の花見先生が宮内庁の鷹匠であったことに敬意を表するとともに、現時点で継承されている伝統的な鷹匠装束としてこれを着用しています。鷹匠装束の保存の意味からも奉納神事や実演などの公式な場において、鷹匠及び鷹匠補はこれの着用を義務付けております。
  •  装束に限らず、伝統文化としての諏訪流の継続的な保存の在り方については、実用の美から離れることなく、表現方法から素材の収集、制作方法に至るまで、一つ一つ時間をかけて慎重な判断を行うよう努めております。
  •  鷹匠といえども普段の狩では洋装で歩かざるを得ない現代にあって、装束は一つの時代を表すアイデンティティーとして御鷹道具同様に継承されていかなくてはなりません。なぜなら鷹匠の心は、技だけでなく装束や御鷹道具の中にも込められているからです。